三島由紀夫はなぜ筋トレにのめり込んだのか、私が資料を読みながら体感した肉体改造の意味

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三島由紀夫の筋トレが気になって調べ始めた理由

最初に三島由紀夫の筋トレについて気になったとき、正直に言えば「文豪なのに、なぜそこまで身体を鍛えたのだろう」という素朴な疑問から入りました。小説を書き、言葉で世界を切り開いていく人の代表のように見える三島が、なぜわざわざ鉄を握り、筋肉を育てる方向へ進んだのか。そのギャップが強烈で、私はそこに妙な引力を感じました。

実際に関連する文章や写真、周辺の証言を読み進めていくと、単なる趣味の筋トレでは片づけられないことがすぐにわかりました。三島由紀夫の筋トレは、体を大きく見せるためだけのものでも、健康維持のための軽い運動でもありません。もっと切実で、もっと個人的で、しかも文学そのものに深く関わる営みだったのです。

私自身、気分が落ちた時期に体を動かす習慣を作ろうとして、筋トレを生活の中に取り入れたことがあります。そのとき感じたのは、言葉で考えているだけでは前に進めない時でも、腕立て伏せを数回やるだけで、頭の中の停滞が少しずつほどけていく感覚でした。もちろん三島の到達点とは比べものになりませんが、「身体を動かすことで、自分の輪郭を取り戻す」という感覚は少しわかる気がします。だからこそ、三島由紀夫が筋トレにのめり込んだ理由を追っていく作業は、単なる人物研究ではなく、自分自身の実感にもつながる読書体験になりました。

虚弱なイメージを持つ作家が、なぜ肉体改造へ向かったのか

三島由紀夫には、若い頃の虚弱なイメージがつきまといます。繊細で、神経質で、どちらかといえば身体性より知性に寄った人物像です。けれど、そのイメージを本人が心地よく受け入れていたかといえば、おそらくそうではなかったのだろうと私は感じました。

資料をたどっていくと、三島は三十歳前後から本格的に身体を鍛え始め、ボディビルを中心に、自分の体を作り直していきます。この変化を知ったとき、私は少し驚きました。なぜなら、ある程度社会的な成功を収めたあとに、あえてそんな苦しいことを始める理由が普通は見えにくいからです。若いうちに劣等感を埋めるために鍛えるならわかりますが、三島はすでに文壇で名を知られた存在でした。

それでも彼は鍛えた。ここに三島由紀夫の筋トレを理解する核心があると思います。つまり彼は、社会的評価では埋まらない欠落を、身体の変化によって埋めようとしていたのではないかということです。頭脳も名声もある。作品もある。だが、それだけでは足りない。言葉だけで生きていることへの違和感、自分の肉体が自分のものになっていない感覚、そうしたものが三島を鉄の世界へ引き寄せたのだと思います。

私も考えすぎて体が置き去りになっていると感じる時期があります。机に向かっている時間が長くなるほど、頭だけが先走って、体が現実から遅れてくる感じがあるのです。そんなときに軽くでも運動すると、ようやく自分が一つにつながる。三島の筋トレへの傾斜を追っていると、その極端な形を見ているような気持ちになりました。

私がいちばん印象を受けたのは「言葉の人」が身体の言葉を求めたこと

三島由紀夫の筋トレを語るうえで欠かせないのが、『太陽と鉄』です。この作品を意識すると、筋トレは単なる肉体改造ではなく、「身体の言葉」を学ぶための行為として見えてきます。言葉で自己を組み立ててきた人間が、言葉では届かない現実の手触りを、肉体によって確かめようとする。その切迫感が、私はとても強く印象に残りました。

実際にこのテーマを追っていると、筋肉そのものよりも、「鍛えることで何を得たかったのか」が重要だと感じます。胸板が厚くなった、腕が太くなった、腹筋が割れた。そうした変化はもちろん目に見えやすい成果です。でも三島が本当に欲しかったのは、見た目の変化だけではなかったはずです。筋肉がつくことで、痛みや重さや呼吸の苦しさといった、身体を通した現実が自分の中へ入ってくる。その経験に、彼は言葉では手にできない価値を見ていたように思えます。

私がこの点に強く引かれたのは、筋トレを始めたばかりの頃の自分を思い出したからです。フォームが安定せず、翌日は必ず筋肉痛になり、たった数分のトレーニングでも息が上がる。それでも続けるうちに、「今日は肩に入った」「昨日より姿勢が良い」とわかる瞬間が出てくる。すると、不思議なことに気持ちも整っていくのです。三島がそこまで単純な話ではなかったとしても、身体を通してしか得られない理解があるという点では、少しだけ共感できました。

三島由紀夫は実際にどう鍛えていたのか

三島由紀夫の筋トレについて調べていて面白かったのは、彼が思いつきで体を動かしていたのではなく、かなり真剣に継続していたことです。専門的な指導を受けながら、自宅やジムで規則的にトレーニングを重ねていたとされます。ここが重要で、三島の筋トレは「作家が気まぐれで始めた変わった趣味」ではありません。むしろ、生活の軸の一つとして組み込まれた習慣に近かったのです。

胸、腕、腹筋まわりを中心に鍛え上げた体つきは、写真を見てもかなり印象的です。私は最初、三島の筋トレというと思想の話ばかりに引っ張られていましたが、写真を見ると考えが変わりました。言葉で読むと抽象的なテーマも、実際の身体を見ると一気に現実になるのです。ここまで変えたのか、という驚きが先に立ちます。知識として理解するより先に、視覚で納得させられる強さがあるのです。

そして、ここでもまた私は少し自分の経験を重ねてしまいました。筋トレは、始めるより続けるほうがずっと難しい。やる気が出ない日もあるし、成果が見えない期間も長い。にもかかわらず続けた人の体には、説明ではなく履歴が刻まれます。三島の写真や証言から受ける説得力は、まさにその「積み重ねの履歴」にあるように思いました。

周囲の証言を読むほど、筋トレが生活そのものだったとわかる

三島由紀夫の筋トレに関する体験情報で、私が特に面白いと思ったのは、周囲の人の記憶です。来客中でも体を動かし始めた、日常の中にトレーニングが自然に入り込んでいた、そうした話を読むと、筋トレがイベントではなく生活そのものになっていたことが伝わってきます。

ここに私は妙なリアリティを感じました。本気で何かを続けている人は、わざわざ「特別な時間」を作るのではなく、生活の隙間を見つけて自然にそれを差し込んでいきます。勉強でも、仕事でも、運動でもそうです。三島の筋トレもまさにその領域に入っていたのでしょう。やる気がある日にだけ鍛えるのではなく、鍛えることが日常のリズムそのものになっていた。そのレベルまで行くと、筋トレは趣味ではなく思想の実践です。

私も運動習慣を切らさないようにしていた時期、帰宅後に迷う前にスクワットだけやる、風呂の前に腹筋だけやる、といった形で生活に埋め込んでいました。量としてはごく小さくても、そのほうが習慣は続きやすい。だから三島の周辺証言を読むと、筋トレのメニューよりも、「やることが当たり前になっている人の空気」がよく伝わってきて、そこにいちばん惹かれました。

三島由紀夫の筋トレは、文学を裏切る行為ではなかった

三島由紀夫の筋トレを表面的に見ると、「言葉の人が身体へ逃げた」と見えてしまうかもしれません。ですが、私が資料を追いながら感じたのは、その逆でした。彼は文学を捨てたのではなく、文学だけでは届かない部分を肉体で補おうとしたのだと思います。

言葉は強い。でも、言葉だけでは足りない瞬間がある。痛み、呼吸、重さ、緊張、姿勢、疲労。そうしたものは、身体を持つことでしか本当には理解できません。三島はおそらく、その不均衡を埋めたかったのでしょう。だから筋トレは余技ではなく、彼の自己認識を完成に近づけるための実践だったのだと思います。

ここまで考えてみて、私は「三島由紀夫 筋トレ」という検索が今も消えない理由がよくわかる気がしました。人はただ筋肉の話を知りたいのではありません。頭脳の極みに見えるような人が、なぜ身体へ向かったのかを知りたいのです。そしてその問いは、現代を生きる私たちにもそのまま返ってきます。考えるだけで満足していないか。言葉だけで自分を作った気になっていないか。身体を置き去りにしていないか。

三島由紀夫の筋トレを調べることは、私にとって、昔の文豪の奇妙な一面を知る作業ではありませんでした。むしろ、身体を持って生きるとはどういうことかを考え直す時間でした。鍛え抜かれた肉体そのものよりも、その肉体に向かわせた欠落と執念に、人は引き寄せられるのだと思います。そしてそこにこそ、三島由紀夫の筋トレが今も検索され続ける本当の理由があるのではないでしょうか。

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